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2011年 08月 21日
四国松山や別府航路、目の前の島々からの出船入船を見るのが好きだった。呉港が今のような立派なターミナルでない頃、中央桟橋はみすぼらしい建屋に粗末な改札口があり、東洋一とうたわれた軍港とは思えぬ海の玄関だった。
昭和30、40年代、一番のにぎわいを見せたのは大安吉日の別府航路の出港風景。夕方の6時半ごろ、大分、別府に向かう瀬戸内海汽船のつるみ丸は新婚旅行のカップルを幾組も乗せて7色のテープに送られて桟橋を離れた。船は広島宇品に寄って、翌早朝に大分、別府に着いた。新婚旅行の行き先が宮崎というのが定番だった時代である。 呉市内の小学生にとって大分・別府が隣県のような親しみやすさを感じるのは毎夕出立するこの航路があったからに違いない。小6の修学旅行はつるみ丸で大分・別府へ。最近仕事ついでに訪ねたサルの高崎山、別府地獄巡り、別府タワーは小学生の頃とあまり変わりがなく、どこも懐かしかった。 出船入船は結構あわただしかった。松山航路に双胴船シーパレスや水中翼船が登場したのはその頃だったろうか。 別府や松山、今治航路は港のメーンで対岸の江田島とをピストンで結ぶフェリーは通勤通学の足としてにぎわった。そんな中で、呉港と松山市沖の中島を結ぶ町営汽船が島々を経由しながら行き来していたのはあまり知られていなかった。 中島は現在、松山市に合併したが当時は温泉郡中島町。中島本島と二神、怒和、津和地、睦月島などからなる惣那諸島である。 地図を広げてみると倉橋島と怒和島は隣同士。睦月島の古老に聞いた話だが、居間に掲げてある古ぼけた賞状は中島と周防大島(山口県)、倉橋島などで競い合った相撲大会のものだった。古老曰く。「舟出せば島は隣組みたいなもの。青年団は相撲とったり、祭に繰り出したりしたもんよ」。海に県境はあるものの島びとの交流は濃厚だった。 中島町営汽船の島伝いの定期便もそれゆえ成り立っていた。島産の魚介やミカンは松山だけでなく呉にも送り込まれた。戦前の海軍工廠以来、呉の造船、製鉄などの工場に働き口を求め、そのまま定着した島出身者も少なくない。人、モノの船便による流れもそこそこあったのだろう。定期航路は昭和の終わりまで運航していた。 定期便は廃止になったものの平成に入ってもしばらく盆と年末年始だけ運航する臨時便が細々と続いていた。平成13年の正月便を取材したことがある。 町営汽船の正月の臨時のフェリー便は、土産のミカンと帰省客をたくさん降ろした。代わりに島に里帰りする親子連れが数組乗り込んだ。その時のメモによると、怒和島から帰った主婦は「島で老いてもミカン作りを続ける母親の手伝いがてら戻った。普段は過疎の島が盆と正月はにぎやかになる。(盆と正月だけだが)この便は島伝いに行くので便利」とある。普段は、呉港からフェリーか高速船でいったん松山港に着いて時間待ちして中島航路に乗り換える。島の脇をすり抜けるものの降りられない。時間も料金も数倍掛かると嘆いた。 この数年後に中島町も松山市に合併、町営汽船も民間会社になり、臨時便も廃止となった。島々の暮らしの歴史を刻んだ島伝いの船便は架橋や道路整備、過疎による利用減で消滅した。別府・大分を結んだ名門航路も消えて久しい。 このお盆に立派になった呉中央桟橋ターミナルのドーム型の展望台に上ってみた。ここからの夕景はおすすめである。建物も景色もなかなかのものだが出船入船のにぎわいに欠けるのが少し残念である。
by kbar09
| 2011-08-21 16:21
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